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恋愛とは?

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にんげん、つい頑張ってしまうんですねぇ・・

頑張ることはいいことだという考えが一般にはあると思います。

そりゃそうです。

無気力ですべてを諦めてしまっては、生命の躍動感もないし、輝いてるとは言えない。

だから、大志とか夢とか天命とかいう言葉にわたしたちは憧れを持つのではないでしょうか。

でも、と振り返ると思うのですよ。。

夢と欲とは似て非なるものじゃないかと。

ついつい、我良しの我欲に包まれてしまう。

そうゆう弱い生き物がじぶんじゃないかって。。

中学生のころから勉強がんばりました。

クラスの中の成績順位を上げたい、偏差値を上げるんだと。

すこしずつ上がってゆきました。

母はわたしを「おまえはばかな子だ」と言いました。

わたしもじぶんは勉強の出来ない子だと決めてました。

でも、ある時から、この村を出たい、百姓は嫌って思った。

ときどきへこむ気持ちをなだめながら勉強に精を出しました。

勉強が出来るようになると、しかし、上には上がいるのですね。

じぶんは出来ないひとたちよりは出来るんだけれども、

偏差値が上がれば上がるほど、じぶんの「出来ない感」が募って行きました。

じぶんより出来ないひとたちよりは出来る。

だから、たいしたもんだという思いはあるんだけれども、

たいしたもんだと思えるように成るほど、たいしたものじゃないんだという、

なんだか皮肉な感情が覆い始めたんです。。

やがてサラリーマンとなり仕事を始めました。

上司は厳しいことを言うんですね。

わたしは悔しい。

だから、わたしは頑張った。

そしてすこし出来るようになるんだけれども、

そうなればなっただけ、もっと「出来ない感」が忍び寄りました。

わたしは他者にばかにされたくなかった。

わたしは、母がくさびを打ち込んだ「おまえはばかな子だ」という呪いを跳ね除けたかったんだと思います。

やがてスピリチュアルブームが来て、来世、魂、アノ世という話しに引き込まれました。

いろんな本が出ていて、なかには「悟った者」がいることを知りました。

わたしは、こころの平穏が欲しかったんです。

じぶんでははっきりそうとは認識はしていなかったんだけど、

他者に負けまいとするガンバリに行き詰まり、努力すれば報われる、

頑張らねばならないというモデルに窒息していました。

で、見つけたのが魂の世界だったんだけど、

わたしには「覚醒」も来ないし、超能力も現れて来ない。

いつまでも平々凡々なわたしは、霊的な世界の偏差値が低い、だめな学生という感じに陥ったのです。

わたしは、覚醒し、霊視やヒーリングでひとびとを救いたかった、と思ってました。

いいや、わたしは、「出来るひと」になって信徒を従えたかっただけかもしれません。。

母はわたしを愛しもしたけど、不用意な発言もした。

そのひとつの言葉がわたしをずっと呪縛した。

それを解きたくて、勉強、仕事、霊的世界のいずれでも「出来るひと」になろうとした。

ばんがったわけです。

でも、がんばっても、与えられないものというのがあるのです。

がんばっても超えれないレベルがあるのです。

じゃあ、おばかなわたしは、だめなんでしょうか?

「出来ない者」は、だめなんでしょうか?

わたしはしあわせにはなれないんでしょうか?

ここには、出来るように成ること=いいこと、というしあわせモデルが組み込まれています。

でも、それではいくらやっても喉の渇きは癒えないのです。。

わたしは、どこで間違ったんでしょうか?

いつまでも母のせいにしていていいのでしょうか???

1935年。

20世紀最大の覚者と言われたかれは、かれを慕う者にこう問われました。

Q 「イエス・キリストは超自然能力を持った全能の人だったのではありませんか?」

で、かれはこう答えました。

A 「彼は自分の能力に気づくことができなかったのです。」

現在も、病気やこころを癒すヒーラーというのは存在していますが、

それを職業にしている者たちとイエスとでは明らかに異なっているというのです。

盲目のものを直したと伝えられるイエスが本当だとしても、

かれは己のその力に気づくことがなかった、そうゆうレベルのひとなんだということです。

じぶんで努力してそうゆう能力を獲得していったわけではなく、

生まれつき備わっていたひとだと。

がんばったんじゃないと。

Q 「テレパシーのような能力を得ることは良くないことなのでしょうか?」

かれは、続けてこういっています。

A 「超自然能力とは能力が拡大されたものです。

限られた能力を持つ者は不幸です。

だから、幸福になるために能力を拡大しようとするのです。

しかし、本当にそうなのか考えてみないさい。

もし限られた能力のために不幸だというのなら、

能力が拡大するにしたがって不幸も拡大することになります。

超能力は幸福をもたらすのではなく、人をより不幸にするのです。」

A 「しかも、何のための能力なのですか?

超能力者になろうとする人は賞賛を求めて自分の力を誇示します。

賞賛が得られなければ幸福にもなれないでしょう。

そしてそこには彼を賞賛する他者の存在も必要とされます。

彼は自分より高い能力を持った者に遭遇することさえあるでしょう。

それは嫉妬を生み出し、さらに不幸を招くでしょう。

能力の高い者はさらに能力の高い者に出会い、

ついには一瞬の内にすべてを吹き飛ばしてしまうような存在に出会うことになるでしょう。

そのような至高の存在、それが神あるいは真我なのです。

いったいどちらが真の力なのでしょうか?

虚栄を満たす力か、平和をもたらす力か?

平和をもたらすもの、それが最高の成就なのです。」

なにも超能力に限ってのことではないんですね。

勉強も仕事も。

あるいは”恋愛”も?

なにか他者のために能力を拡大したいというのでなければ、

たいがいは、獲得した能力に得意になったり、”劣った者”をさげすんだりしてしまうのです。

他に抜きん出ても、その他者に崇めて欲しいと思ってしまっては、

しかもじぶんが蔑視する他者にあがめて欲しがるのは、これはもう狂気です。

狂気と言うと極端に聞えるでしょうが、

しあわせという願いからすると自殺行為です。

悔しい、辛い。。

だから頑張って、ここを抜け出したい。

こころを閉ざして頑張る。。

そうゆううん十年は、しかし、とても恥ずかしいものです。

なによりもいつか現れる上位者を恐れますから、平安は来ません。

わたしたちは、他者より優れ他者に賞賛されたくて生きていくのでしょうか?

わたしたちの頑張りモデルは、じぶんのためになっているのでしょうか?

能力の低いものは、不幸なのでしょうか?

しあわせとは、そのままの「わたし」で安住し朗らかに在るということだと思います。

他者がしあわせを持って来てくれるわけでもなく、

いくら地位やお金や名誉が来ても、その外部のことがら自体がわたしをしあわせにしてくれるわけでない。。

ほんとうにそうなのか?

神や仏にさえも頼らず、おのれと対話することがとても大切なんだなと思うようになってきました。

どう対話するか?

それさえも、わたしらしさであり、わたしが探らねばならないと思います。

これはわたしのじんせいなんだもの、

外のことがらに頼らず、わたしがわたしと向き合わねばと思うのです。

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